満濃池の歴史
古代の満濃池 「今は昔、讃岐國(注)の郡に、満濃の池とて大きなる池あり。高野の大師の、その國の人をあはれまむが為に、 人を催して築き給へる池なり。池の廻りはるかに遠くて、堤高かりければ、さらに池とは思えで海などとぞ見え ける。」(注:原本欠字) 『今昔物語』に描かれた古代の満濃池の姿、そこには作者の誇張もみられるであろう。しかし現在でも、水を満々 と湛える満濃池を初めて見たときの印象は、そう変わらない。下流域から満濃池を訪れるとき、堤防の横の急な 坂道を上りつめると、池とは思えないほどの広大な水面が目の前にひろがる。現代の巨大なダム貯水池を見慣 れた目には、もちろん海とは思えないが、それは湖と呼ぶにふさわしい規模である。総貯水量 1,540万t、農業用 溜池としては他に類をみない、日本一のスケールを擁している。 |
現在の配水塔↓が出来るまで使われていた、旧配水塔 |
築堤の歴史 ・大宝年間(701〜704) 国守道守朝臣による築造。文献に表れる最初のものだが、溜池の規模は不明。 ・弘仁12年(821) 空海による修築。 ・仁寿2〜3年(852〜853) 国守弘宗王による復旧。 このうち空海の修築は、当時の『太政官符』に記述が遺されている。道守朝臣および弘宗王に関する記事は『満濃池後碑文(まんのういけのちのひぶみ)』にみられるが、この文献はかなり後代(1020年)に書かれたものであり、また空海の事績を無視している点など疑問が多い。 ・寛永8年(1631) 土木技術家、西嶋八兵衛による築造。400年以上にわたり廃池となっていたものを、藩主の命により復興した。 ・明治3年(1870) 長谷川佐太郎らによる修築。 ・昭和15〜34年(1940〜1959) 6mの嵩上げ工事により、現在の堤防が築造された。 |
配水塔手前にうっすらと見えるのが現在確認できる 旧の堤防です。(長谷川佐太郎らによる修築) |
現在の堤防へ 昭和15年〜34年の嵩上げ工事 6mの嵩上げ工事により、現在の堤防が築造された。 これらの工事に代表される幾度もの修築・改修により、満濃池は現在、貯水量 1,540万t を誇る日本一の農業用溜池となったのである。 毎年6月13日は、満濃池ではその年初めて池の水を流す「ゆる抜き」の神事が行われる。ゆる抜きとは、樋管(取水管)の栓を開けて、溜池の水を流し落とすことを意味している。 樋管は水を流す重要な設備であり、溜池の生命ともいわれてきた。 現在は取水塔を通 して水を流しているが、昔の満濃池には堤防の底に埋設した底樋(そ こひ)と、堤防内側の斜面 に敷設した竪樋(たてひ)とがあり、2つの樋管は池の底でつなが っていた。竪樋には数ヵ所の取水穴があり、その上に櫓を組み、揺木(ゆるぎ)(筆木)と呼 ばれる栓を上から順に開いて計画的な配水を行った。大きな溜池では、上層と下層とで水 温にかなりの差が生じる。竪樋と櫓は、稲作に適した水温の高い上層水から流すための巧 みな仕組みでもあった。 樋管を通って満濃池を流れ出た水は、平野に網の目のように張りめぐらされた用水路を通 り、田へ、あるいは子池、孫池と呼ばれる下流にある数10もの小さな池へと供給される。現 在その受益面 積は、地元満濃町のみならず、丸亀市、善通寺市、多度津町、琴平町の2市 3町を含む4,600haに及んでいる。ゆる抜きは、その広大な地域を潤す最初の水(仕付水)を 流すもので、讃岐地方に田植えの始まりを告げる行事でもある。 |