満濃池人物伝

西 嶋 八 兵 衛

 

 満濃池と言えば空海の名が浮かぶが今日の満濃池は西嶋ハ兵衛の築造した池が
原形であると言う方が正鵠を得ている。

 弘仁年間に空海が築いた池は百年後には崩れて修築はされたが決壊が続き
長期間放置されたままとなっていた。それを藩政時代に入った十七世紀、
讃岐生駒藩の客身 西嶋ハ兵衛によって本格的に築き直されたのである。

 寛永年間相次ぐ旱魃に困りはてた生駒藩は石高を上げるために領主の後見
人藤堂高虎の家臣、西嶋ハ兵衛を招いて新田開発を進めることとした。その
時領内を見て回った八兵衛は、荒れ果てた満濃池の現状をみて空海の古事を
参考に築造を決意、藩直営工事として見事に再築したのである。

 彼は満濃池再築を三ヵ年計画で設計、寛永五年十月十九日に鍬入れして着工。
三年後の八年二月十五日堤裏の石垣のつき直し、芝付けも終わり完成している。

 八兵衛は工事着工前、矢原家を訪ね家記を読み、空海の工事の概要とその緻
密さを知り驚嘆したと言われ、この工事は矢原家の協力なくしては順調に進ま
なかったと思われるが生駒藩はこの工事の協力に対して矢原家に五十石を永代
給付している。

 西嶋ハ兵衛は工事中に藤堂高虎の命をうけ一旦江戸に行き、讃岐の治水利水
の状況を報告して再び来讃、寛永十六年まで滞在する。この間高松の春日新田、
香東川の付け替えなどを行い、生駒騒動のあおりを受けて讃岐を去る時には、
大野原村の井関池の築造工事を始め、併せて大野原新田開発をも進めていた。

 生駒騒動では領主高俊は十七万石から一挙に一万石の出羽矢島に改易となった。
八兵衛は離任後改めて幕府から高松城引渡しの、上使案内役を仰せつかり讃岐入
りしたが、この役目を果たし帰郷した後、もう再び讃岐に来ることはなかった。

 伊勢に帰国した彼は大和五万石を差配する城和奉行に昇進、延宝八年(1681)八
十一歳で天寿を全うした。

 墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にあり、脇に正五位の贈位の碑が建っている。

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