満濃池 人物伝

松崎 渋右衛門

松崎渋右衛門は文政十年(1827)八月十五日 江戸水道橋の松平藩邸で産声をあげた。
父は伊織と云い高松藩江戸詰めの武士であった。渋右衛門は幼少時より利発で記憶力
抜群、弁舌爽やかで奇童と言われ、直言には両親も心配するほどだった。

 叔父には勤皇家の長谷川宗右衛門がおり、十六歳で家督を継いだ渋右衛門は弘道館
に学び藤田東湖の影響を受け、尊皇の思想を身に付けたという。

 直言は藩主にも及び不興をかった渋右衛門は江戸詰めから国元への配置換えとなり、
高松勤務となったが直言は治らなかった。元治元年(1864)九月松崎は勤皇とのことで、
家老職から寄合番頭に格下げ五ヶ月の閉門となった。

 慶応元年二月十三日渋右衛門は勤皇思想が強いと言うことで投獄されてしまうが、
この時期勤皇志士の日柳燕石、美馬君田らも獄中にあってここで満濃池の実情や農民
の苦労を聞かされていたものとおもわれる。

 慶応四年六月九日 朝廷の命により出獄するが都合四年間も投獄生活を強いられた
こととなる。出獄後明治二年四月に再び高松藩執政職兼会計農政長の要職に就くが早
速六月には長谷川佐太郎と現地を視察し、石穴案を強く推し寒川郡富田村の庄屋軒原
庄蔵の起用を即決する。

 明治二年九月八日高松城内(現玉藻公園の一角)にて暗殺される。彼の辞世の句は 
君のため国のためには惜しからじあだに散りなん命なりせば とあり、覚悟の上の
登城であったとおもわれる。

 享年四十三歳であった。

戻る