満濃池の沿革

 

 満濃池は金倉川沿いの広い谷地と、天真名井の豊かな湧き水を堰き止めて、大宝年間(701〜704)に讃岐の国守、道守朝臣が創築したと満濃池後碑文に記されています。

 其の池も弘仁九年の洪水で決壊し、築池使 路ノ真人浜継が再築に着手するも進まず、国守の嘆願で嵯峨天皇の命を受け、弘仁十二年空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、再築された話は有名であります。その時空海は池東の高台岩上に、護摩壇を作り工事期間中護摩を焚き、工事の無事完成を祈ったと伝えられ、その岩山は今も護摩壇岩として残っています。

 その池も三十年後の洪水で決壊し、再築。その後三百三十余年は決壊の記録が無く元暦元年五月一日の洪水で堤防が決壊、鎌倉・戦国と騒乱期の四百五十年間は再築されず、池の中に人が住み、池内村が出来ていた、と言われています。

 豊臣秀吉が天下統一をなし、太平の世となり徳川家光の時、讃岐城主生駒高俊は寛永五年、家臣 西嶋八兵衛に満濃池の再築を命じました。八兵衛は現地を踏査し、空海が再築の際逗留した矢原家に残された、資料を参考に三年計画で再築を設計着工し、

寛永八年二月十五日に竣工しています。その後底樋の伏せ替え六回、櫓の仕替十二回を数えて、安政元年の大地震による決壊となります。

 その後、多数の先人の尽力により明治三年に復旧した満濃池は、貯水量585万トンでした。明治三十八年に第一次嵩上げ工事(0,87m)が行われ、貯水量667万トンとなり、昭和五年に第二次嵩上げ工事(1,5m)が行われ、貯水量780万トンとなり、昭和三十四年竣工の第三次嵩上げ工事(6m)で、現在の貯水量1,540万トンとなり、潅漑用溜池としては日本一となったのであります。

 概要 満水面積 138ha、堤長 155m、堤高 32m、集水面積 9,900ha

    受益面積 4,600ha